真夜中の静まり返ったリビングで、夫の健太は冷や汗を流していた。
リビングの中央には、ついさっきアマゾンから届いたばかりの巨大な段ボール箱が鎮座している。中身は、以前から欲しくてたまらなかった高級な電動マッサージチェアだ。日中は仕事で受け取れず、日付が変わる直前の「深夜お急ぎ便」で指定してしまったのは彼の浅はかなミスだった。
「さすがに、この時間にガチャガチャ組み立てたら妻の美穂が起きてしまうな……」
健太は冷や汗を拭いながら、箱をそっと開けた。幸いなことに、本体はすでに完成しており、電源コードを挿すだけですぐに使える仕様だった。しかし、問題はその巨体である。佐川急便の配達員が「玄関に入りきらないかもしれないので、ここで開けちゃいますね」と笑顔で去っていったため、梱包材の発泡スチロールの山がリビングの床を埋め尽くしていた。
「とりあえず、この発泡スチロールを片付けよう。音を立てないように……」
猫の足音よりも静かに、慎重に、彼は巨大な発泡スチロールの破片をゴミ袋へ押し込んでいく。しかし、乾燥した静まり返った部屋で発泡スチロール同士が擦れ合う「キュキュッ、ギィィ」という微小な音が、深夜の静寂には妙に響き渡る。健太は心臓をバクバクさせながら、冷や汗を手のひらで拭った。
その時だった。
「……けんた?」
背後から、低く、眠たげで、そしてこの世のどのホラー映画よりも恐ろしい声が降ってきた。
ビクッと全身の毛が逆立った。スローモーションのように振り返ると、寝室のドアの隙間から、ぼさぼさ髪にパジャマ姿の美穂が、まるでリングインするボクサーのような冷徹な眼差しでこちらを睨みつけていた。
「あ、あはは……美穂、起きたの? ごめんね、なんか目が冴めちゃってさ……」
「……それ、なに?」
「あ、これ? いや、ええと……」
健太は頭をフル回転させた。ここで「マッサージチェアを買った」と正直に言えば、「また勝手にそんな高いものを!」とお説教が始まるのは目に見えている。小遣いの前借り交渉すら難航するだろう。
「き、筋肉痛予防の健康器具! そう、健康グッズの最新モデルが届いたんだよ! 最近テレワークで肩が凝るだろ? だから、その、家族みんなの健康のために……」
健太のしどろもどろの言い訳を聞きながら、美穂は無言のままリビングに歩み寄ってきた。そして、床に転がる巨大な黒いレザーの塊――明らかにマッサージチェアとしか見えない威容を放つ物体をじっと見つめた。
「ふーん。健康グッズね」
「そ、そうだよ! ちょっと試してみる?」
健太は冷や汗を拭いながら、ごまかすようにそのマッサージチェアの電源ボタンをポチッと押した。
途端に、チェアが低い駆動音を唸らせ、まるで変形ロボットのように「ウィーーーン」と背もたれをウィング状に広げ始めた。青色LEDの怪しげなランプがピカッと光り、ローラーが動き出す。あまりの堂々とした「マッサージチェアです」という主張に、健太の言い訳は一瞬で崩れ去った。
「……これ、マッサージチェアじゃない」
「あー……うん、まあ、厳密に言うと、マッサージ機能もついている健康グッズというか……」
健太が目を泳がせたその瞬間、マッサージチェアが突如として奇妙な動きを始めた。
実はこの機種、スマホの専用アプリと連動して「AIがその人の疲労度を自動診断して揉みほぐす」というハイテク仕様だったのだ。電源が入ったまま放置されていたチェアは、健太の焦りと冷や汗の匂いをセンサーが感知したのか、あるいはただのバグか、突然モードを切り替えた。
『――ピンポーン。極上のリラクゼーションプログラムを開始します』
内蔵スピーカーから、やたらと爽やかな合成音声が響き渡る。
『お客様、本日はお疲れ様でした。さあ、日々のストレスをすべて手放し、深い眠りへと誘います。まずは、両腕を大きく広げてください』
誰も座っていないのに、チェアのローラーとエアバッグが激しく伸縮し、何もない空気を猛烈に揉みほぐし始めた。ウィーーーン、シュコシュコシュコッ! と、まるで目に見えない巨大な透明人間がプロの施術を受けて悶絶しているかのようなシュールな光景がリビングに展開される。
美穂は、目の前で一人で激しくブルブルと震えているマッサージチェアと、その横で顔面蒼白になっている夫を交互に見つめた。
リビングに流れる、気まずい沈黙。
AIはさらに調子に乗り、軽快なBGMとともにこう言い放った。
『――リラックスできていますか? さあ、声に出して笑ってみましょう! ハハハ、ハハハ!』
誰もいない椅子が、機械的に高らかに笑い声を上げた。
『ハハハ、ハハハ!』
深夜二時、リビングに響き渡る謎の機械の笑い声。
数秒の静寂の後、美穂の肩がわずかに震え始めた。怒っているのか? いや、違う。彼女の口元が引きつり、次の瞬間、堪えきれなくなったように「プッ……!」と吹き出した。
「な、なにこれ……! 一人でなにやってるのよ!」
美穂はその場に崩れ落ちるように大爆笑し始めた。
「夜中にこっそり届けて、一人で変な椅子を組み立てて、そんで椅子に笑わされてるって、アンタ何やってるのよ!」
笑い転げる妻を見て、健太の緊張の糸はプツリと切れた。
「いや、違うんだよ、AIが勝手に……ていうか、家族みんなの健康のために……!」
「はいはい、健康グッズね! じゃあさっそく、その健康グッズの最初の犠牲者になってもらいましょうか!」
笑い涙を拭いながら美穂が指さす先で、マッサージチェアは相変わらず『ハハハ、ハハハ!』と楽しそうに笑い続けていた。
結局、その夜は夫婦揃って深夜三時まで、最新式マッサージチェアの猛烈な揉みほぐしを順番に受けるハメになったという。翌朝、二人は見事に全身筋肉痛に見舞われたが、なぜか清々しい朝を迎えたのだった。