カムチャッカの若者が きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は 朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が ほほえみながら寝がえりをうつとき
競馬民たちは ジャパンカップの枠順発表を待っているーー
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こんばんは✨️シズカです📖
本日も一緒に過ごして下さった皆さん、ありがとうございました😊
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谷川俊太郎訃報を受けて。
谷川氏の元配偶者の佐野洋子さん(「百万回生きたねこ」の作者)の文章は水が合って好きで、エッセイは一通り読んでいたのだけれど、谷川作品は有名なものをいくつか……しか知りません。詩人で傾倒したのは、吉原幸子、茨木のり子あたりです。
これを機に谷川俊太郎作品を、ちゃんと掘り下げてみようかな。
楳図かずお先生もそうですが、日本人の感性の原風景の一部を形成してくれていた文化人が一人、また一人とこの世を去っていくのは寂しいですね。
谷川俊太郎の詩に「生きているということ それはすべての美しいものに出会うということ」という一節があったと思うけど、私はいつも、この心持ちで世界と向き合うようにしています。
この世にいるうちに、見たい映画、読みたい本、行きたい場所、会いたい人。どれだけクエスト・クリアできるだろう、どれだけの感情を味わうことができるだろう、尊いと思えるものにいくつ出会えるだろう、と思ったら一生なんてあっという間。
オードリー・タン氏がインタビューで語っていた「この世にログイン・ログアウトする」という表し方がとても素敵だな、と思ったのだけれど、せっかくこの世というオープン・ワールドにログインしたのだから、遊び尽くして、探検し尽くしてからログアウトしたいよね。
「私たちが抱くべき信念は『いつかログアウトするときの世界はログインしたときよりももっとよくなっている』に尽きるのです」
(オードリー・タン)
谷川俊太郎といえば「ピーナッツ」の翻訳でも知られますが
「ぼくのことを好きじゃない誰かのことでくよくよする時間はないよ。僕は、僕を大好きな人を大好きでいるのに忙しすぎるんだよ」
も、とても好きな考え方です。
相容れないものをほおっておけない性分の人々(それは「嫌いな人やものを攻撃せずにはいられない」「好きでもない人に嫌われていちいち傷ついてしまう」どちらの意味も併せて)、が世の中に存在するのは仕方ないですが
「明日死ぬかもしれないのに、そんなところによくエネルギー注げるなぁ。せっかく日本語の読み書きができるんだから、暇なら三島由紀夫全集でも読んだらいいのに」
と思うのみです。
せっかく、日本語を母国語として育ったのに、三島文学に触れずに死んでいくなんて恐ろしすぎて、気の毒すぎてゾッとする。もったいないオバケが出るわ。日本人に生まれたのに、米の美味さを知らないで死んでいくようなもんだぞ。
閑話休題。
自分を大切にしてくれる人たちを大切にして、自分が好きなもの、美しいと思えるものに没頭して、時間を費やして生きる。
いつかこの世を去るときに「一度、行ってみたかった」「一度、見てみたかった」の後悔を一つでも少なくし、「もう一度、会っておきたかった」「もう一度、食べたかった」と、少し名残が惜しくなるような思い出を一つでも多く作る。
そんなふうに生きて死ねたら本望だな。
メメント・モリ!
「俺がおとつい死んだので
友だちが黒い服を着こんで集まってきた
驚いたことにおいおい泣いているあいつは
生前俺が電話にも出なかった男
まっ白なベンツに乗ってやってきた
俺はおとつい死んだのに
世界は滅びる気配もない
坊主の袈裟はきらきらと冬の陽に輝いて
隣家の小五は俺のパソコンをいたずらしてる
おや線香ってこんなにいい匂いだったのか
俺はおとつい死んだから
もう今日に何の意味もない
おかげで意味じゃないものがよく分る
もっとしつこく触っておけばよかったなあ
あのひとのふくらはぎに」
(谷川俊太郎「ふくらはぎ」)