かつて世界中で人間動物園なるものが存在していました。植民地主義、進化主義、人種差別思考などが強く根付いていた時代が19世紀、20世紀にありました。
そこでかつて行われていた国家や政治活動が確率されていなかった植民地の集落でで暮らす人達の暮らしの様子を文明人の公衆の前に晒す「生態展示」です。
それより以前には「見世物小屋」なんてのがあり身体に何かしらの障がいを持った人が娯楽の対象として扱われていました。
足が4本ある少女、身体が一つで顔が2つある双子の男性、背の小さい小人症などの人が展示されていたのですが私はこの「見世物小屋」にあまりマイナスなイメージはなくて、身体に障がいを抱えた人がそれを理由に仕事に就けなかった時代。これを生業として給料を稼ぐ唯一の手段だったのだと思います。酷い扱いを受けていない事前提ですが。
もちろん現代では考えられない事です。
ただ、この見世物小屋が徐々に帝国主義を正当化するために全国に広がっていったんです。それが前述した「生態展示」です。
戦後、アメリカが植民地化したフィリピン。そのフィリピン人1200人と共にアフリカの黒人、北海道で暮らすアイヌ人、インドやトルコ人合わせて32名を一定の区域に住まわせ、その日常生活を展示した「生態展示」なんです。
各地の植民地支配下における住民が酷い扱いをうけるようになってきたんですね。中には精神的に病んで、自ら命を落とす人までいました。
当時、ピグミー族の風習で歯を研ぐって習慣があって歯の先を鋭く尖らせる風習ですがこれを「人食い人種」として珍しい物みたさに多くの人々が訪れ、当時の新聞にも人食い人種の言葉で大々的に掲載されました。
同じ人間と思っていない見下したような扱いに、それを反対する人が出てきました。ニューヨークタイム誌もこの反対抗議を取り上げ後にこのピグミー族は解放される事になります。
しかし時は1914年。第一次世界大戦が勃発。これにより母国へ帰る光を失ったピグミー族の彼は盗んだ銃で自害してしまいます。
これがつい100年前の出来事だった事に驚きます。今でも完全にはなくならない人種差別。肌の色や目の色が違くても同じ人間だと全世界の人々が平等な扱いを受ける日々がくる事を願わずにはいられません。
藤井りか
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