この世に、完全な「悪い人」は存在しないと思っています。その人なりの生きる論理(倫理観及び価値観)があるがゆえに、一般的な「善」から逸脱して他者を傷つけてしまうことが多く、「悪」と感じ取られてしまうことが多いのです。
「他人同士でも。想いを伝えれば、話し合えば、丁寧に対話すれば。きっといつか、わかりあえる…」そう思っていた頃もありました。でも、この世には。生きる論理がどうしても違うから、わかりあえない人も一定数存在します。そういった人と関わる中で、献身的に接することで、自らが傷ついても。わかりあおうとすればするほど、傷口が広がるばかりなのです。
そして、その人を見捨てたくないと思うのであれば。悪を懲らすのではなく、悪を許すことこそが、優しさなのだと気づきました。生きる論理が違うのだから、その論理を否定すること自体が「相手を傷つける」ことに、他ならないのです。もちろん【"許した側"の責任】は存在します。一度許したのであれば、自己犠牲の念は伝えてはならない…そっと、何も言わずに見守ること。これがなかなか、難しいんですけどね。
りあんはね、お互いのことを思い遣って、自然に笑顔になれるような、優しい世界になったらよいのに、っていつも思います。生きる論理が違くても、わかりあえないと感じても。同じ世界を生きるのであれば。同じ空気を吸って、同じ星空を見て…同じ光を瞳の奥に宿すのだから。うまく言語化できずとも、胸のうちをすべて伝えなくても…本当はきっと、通じるものがあるんだって。そうだったらよいな、って願います。
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