「簡単に、”あの人嫌い”なんて、言うもんじゃないよ」 彼は作り笑顔を湛えながら、私に説いた。 「どんなに憎くても、恨んでしまっても。全てを受け止める度量のある、”優しい人”でありなさい」 笑顔の中心には、三日月のように細まった目がある。誰が見ても「気の良い人」と評するであろう、完璧に計算されたその表情。凝視しても、うっすらと眺めても、あるいは透視を試みても。何をしても、どうしても。三日月型の瞳の奥からは、彼の本心が読み取れなくて。その笑顔は、私にとっては最後まで仮面であり、作り笑顔でしかなかった。
彼は私にとって、師であり、父であり、よき友人であった。彼は私が求める全てを、叶えてくれた。それが親愛の情であったのか、あるいは憐憫の情によるものであったのか。今となってはもう、知る術がない。
茫洋たる海が、全てを奪い去っていったのだ。海は、命あるものをいとも簡単に、赤子の手をひねるかのように、無に帰してしまう。海なんて、ちっぽけな人間では。到底抗うことなんて、できないんだって。本当は、古来より識っていたはずなのに。自然を操る力を手に入れただなんて、勘違いも甚だしいってことを、私たちは今さら思い知らされたのだ。
そう、彼とは、突然の別れであった。「失ってからはじめて気づく、大切なもの」なんて、普遍的で手垢のついたフレーズだけど。昨日までの日常が、当たり前のように。今日も、明日からも続いていくって、根拠もなく信じていた。私に残されたのは、彼との思い出と「”優しい人”でありなさい」という言葉だけであった。
人は、思い出したくないほどに辛い出来事を、まるで最初から無かったかのように、忘れていく。彼との離別の記憶は、だんだんと霞がかっていき、忘却の彼方へと押しやられていく。そして、彼自体のことを「思い出せ」なくなっていくのだ。自分に都合の良いようにできてしまっている脳みそに、憤然とし、呆然とし、寂寞しながらも。次第に彼のことを「思い出さ」なくっていった、ひとりぼっちの私に残されたのは。「”優しい人”でありなさい」という彼の言葉のみであった。そして、教えであったはずのその言葉は、呪いへと変わっていくのである。
明日へ続く
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